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ritoukouro-bana.jpg
隠岐島、淡路島、五島列島、佐渡島、小豆島、八丈島と巡ってきた、ブログ「離島航路」。
この6島で終了とさせていただきます。ありがとうございました。
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東海汽船(東京都八丈島)

 とおい、とおい、青い海の向こうに「八丈ブルー」と呼ばれる海がある。
東京から290km、伊豆諸島の中でも特別に離れた外洋に浮かぶ孤島、八丈島。

 八丈島は、ただただ遠いだけではありません。島の周りには真横に黒潮が流れていて、かつては船で島に接岸することも、島から脱出することも難しいとされたハイレベルな離島なのです。
 現在でも島の人は、この潮の流れを海の中の川「黒川」とよんでいるとか。
 今回の離島航路は、現代だからこそ容易に渡ることができる外洋の航路です。
東海汽船-橘丸-トップ  そんな八丈島には独特な文化が育まれることになりました。
夜出発するフェリーにのって朝を迎えると、航海中の海、遥か彼方に小さな八丈島の影が見えてきます。八丈島を体感するためにはズバリ船旅です。

東海汽船
東京ー三宅島ー八丈島
橘丸(平成26年6月竣工)
*現在の「東海汽船」のパンフレット クリックで拡大
東海汽船 橘丸-1
東海汽船 橘丸-2
南国の空、豊かな緑と花の島

 八丈島は、古くから漂着した船や、流罪で送られてきた人を受け入れるなどして、独特な文化や風習を構築してきたため、その歴史や文化を知ってから島をまわる方が楽しいといわれています。
 島には、八丈島の生活を伝える資料や文献などを多数展示している「八丈島歴史民族博物館」があります。
 「ふるさと村」では、伝統的な様式をもつ住居や倉庫、家畜小屋など、八丈島独特の建築物を見ることもできます。
 「服部屋敷跡」では予約が必要ですが、八丈太鼓と地元に伝わる樫立踊りが上演されます。
 また、海岸で角がとれて丸くなった自然石だけで組まれた島特有の「玉石垣」は、大里地区で保存状態が良いものを確認できます。
 島名の由来ともいわれている絹織物「黄八丈」は、室町時代から伝わる八丈島の伝統工芸品です。

 島の食文化も独特で、くさや、アシタバ、島の住民たちがロベとよんでいるシンノヤシ、海藻を煮出して味付けした郷土料理などがあります。また、島寿司は、わさびではなくカラシをつけて食べます。島酒には鹿児島から来た流人の歴史があります。

 島には、海水浴場や牧場、温泉まであります。広大な海と島内を望める標高854mの八丈富士からは、島内で対になっている三原山もきれいに見えます。

 かつて、海の真ん中で住民たちはどんな思いで、漂流船や流人を迎え入れたのでしょう。あらゆるものを海から取りこんでいった孤島には、そこで生きた人の情が深く刻まれているはずです。
 今回の離島航路では、航路が目に見えないものまでをも運び、繋げていることを感じてみましょう。
東海汽船 橘丸-3
竹芝埠頭-1 竹芝埠頭-2

島の記憶をよむ(八丈島)

 本土から伊豆諸島を順にたどっていくと、伊豆大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島と続きますが、そこから遠く外洋に突き放されたところに浮かんでいる「ひょうたん型」の島。− 八丈島です。

 ふたつの火山が接合して生まれたこの島には、縄文時代から人が住んでいたことが分かっています。耕作できる土地は狭く、台風などによる塩害も受けやすい環境で、作物の実りも乏しい島ですが、長い間、本土の争いごとや直接的な支配に巻き込まれることもなく、島内では平和に暮らしてきたようです。

豊かではなくとも自立した生活を営んできた八丈島
 
 島は荒々しい海に囲まれている上に、本土とも離れ過ぎているため、島外に大きな交流を求めることもなく、島内には独特な文化が育まれていきました。
 島外から新しくもたらされる文化は、黒潮を漂流し漂着した国内外の船や船員によって得ることが多くありました。漂着船に積まれた食料も、島の住民には非常にありがたい積み荷だったようですが、島には厳重な規定があり、漂流者に対しても手厚く介抱し、双方ともに納得できる範囲で、島のものにしています。
 島の女性は働き者で、彼女たちが織りなす黄八丈によって島の経済は支えられていました。一家の主権を女性が握っていたほどです。

島に流人がやってきた。「渡世勝手次第」 

 慶長11(1606)年から、島流しの流人が送られてくるようになります。
 流人が言い渡されている決まりは「渡世勝手次第」。流人は島で自分で生計を立てろというものでした。
 貧しい島で自分で生計を立てなければならないことは非常に厳しいことでしたが、この島に生きて来た住民たちの目を通して見れば、それはとても自然に受け入れられたのではないでしょうか。
 しかも、初期の頃に八丈島に送られてきた流人は、思想犯や政治犯など教養のある人たちでした。武家や僧侶出身の流人はすすんで寺子屋を開いて子供達を集めるなどし、読み、書き、そろばん、知識や技術を教えました。八丈島での教育史の始まりです。
 医術の分かる者は医者として暮らしました。島では、流人との交流から各地方の盆踊りや民謡等が受け継がれ、独特な生活様式や習慣も発達していきました。

 とてもハングリーな孤島の文化。島はどんどんと情報と知恵を吸収していきます。島の住民も流人に好意的で、歓迎するほどだったことも分かっています。

 1800年代には、さつまいも栽培の改善が進み、ついには島の主要な食料となっていきます。
 さらには、そこに1852年。鹿児島の商人、丹宗庄右ェ門(たんそう しょうえもん)が密貿易の罪で八丈島へ送られてきました。
 庄右ェ門は、八丈島の雑穀で作ったドブロクを飲む生活をみて、九州では、さつまいもで焼酎を造っていることを教えます。そして、取り寄せた蒸留器で焼酎造りを伝えました。八丈島での焼酎造りは今日にまで続いています。

 島には実に様々な人がいて、彼らが島に残したものが八丈島研究には不可欠です。

 島の医療改善に励んだ、太田道寿
 為替手形を広めた、加藤稲五郎
 養蚕技術を伝授した、菅野八郎
 南京船漂着図と船員63名をリアルに描き残した絵師、狩野春潮
 八丈島の歴史資料『八丈実記』72巻を作成した、近藤富蔵
 仏教彫刻を多数残した、仏師民部

 八丈島の文化は流人の影響を抜きには語ることは出来ません。

八丈島の女性たち

 強く優しい八丈島の女性の願いが島を守ってきたことも重要でしょう。
 流人の生活に同情し、献身的に生活を助けた者や、夫婦の縁を結んだ者もいました。生活が苦しい流人たちを支えた彼女たちのなぐさめは、島内の秩序を保つことにも優しく繋がっていたと思います。
 刑期満了を待つ男と、複雑な思いで寄り添う島の女性。
 赦免となって島を離れる日がくると、妻と子は港で分かれることになりました。
 底土港の近くにある、三根倉(みつねくら)の坂には、そんな彼女たちの、とても深い愛情の物語が染み込んでいます。
 野口雨情の歌碑が住宅地の中に残されています。

 『ショメ節』
 さか真ん中で
 出船 眺めて袖絞る

受け入れる文化島とその危機 

 慶長11(1606)年以来、この265年の間に約1900人の流罪人が流されてきました。始めは島の生活を発展させた「流人の制度」でしたが、後期になると、次第に刑事犯が送り込まれるようになり、島内でも度々問題を起こされるようになります。島内で流人に対する軽蔑も広がっていき、困り果てた島の住民は、何度も遠島の免除を願い出ています。

 漂着船と島の航路から様々な恵みを受け入れてきた八丈島。それは、本土から遠く離れた島に生きる住民の中に育まれた処世術でもあったはすです。太平洋の真ん中で海からの人を求め、豊かな島の暮らしを希求する姿からは、とても自然で、島には不可欠な考え方だったことを考えさせられます。そしてそれは、島国、日本の地理的現実にも重なる姿でしょう。
 
 八丈島で一旦動き出した流人を受け入れる制度。島民ではもうその流れを止めることはできませんでした。

 グローバル化の進む現在の世界情勢。日本島は世界からの潮流の中で、どのような未来を選択していけるのでしょうか。
 島国が育んだ強烈なハングリー精神は、どんな舞台でも大きなパワーとなるかも知れません。しかし、それが国際間の協定や制度に関わる様々なリスクに対しては、全くの無防備である心配を私たちは知りました。
 何事も吸収してきた八丈島の人々の精神と、島に眠る深い愛情を、どのようにすれば活かすことができたのだろう。今、日本島の立ち位置から、彼女たちの声に耳を澄ませる。(了


離島キッチン(東京・神楽坂) 離島伝言板

 醤油だれで漬けにして、甘みを強くした酢飯にのせて握った島寿司。わさびが手に入らなかったなごりで、練りがらしを使っています。八丈島のかつおのたたきに、明日葉からしマヨネーズ炙り焼き。
 離島キッチンの女性スタッフによると、島では今でも女性たちの元気がいっぱい。
 直伝された味付けは、素材の旨みをやさしく活かしています。
離島掲示板-東海汽船-1 離島掲示板-東海汽船-2
離島掲示板-東海汽船-3 離島掲示板-東海汽船




四国フェリーグループ、両備フェリーカンパニー、ジャンボフェリー(香川県小豆島)

 瀬戸内海で淡路島に次いで2番目に大きな島、小豆島。

 本州と四国との間にあって、島の玄関にあたる主要な港も、土庄港、池田港、草壁港、坂手港、福田港、大部港とグルリといくつもあります。本州や四国とを結ぶ航路がたくさんあり、本州向けは神戸港や姫路港、新岡山港、宇野港へ、四国向けへは高松港に結ばれています。
 その航路を運航する会社も、各社様々な企画を立てていて、本州から車ごとフェリーで小豆島に渡り、ドライブしながら島を縦断、別の港からまたフェリーに乗り込んで四国の高松まで渡る、といったお得な「スルーキップ」を発売するなど、人の流れも提案しています。島内ではレンタカーやホテルまでも運営。なんと、四国フェリーグループには“小豆島手延そうめん”の会社まで存在します。
小豆島ータイトル
 小豆島には四国側にも本州側にもトンネルや橋が架かっていません。飛行場もありません。それでも、小豆島に約30,000人もの人の暮らしがあるのは、島内にもしっかりとした豊かさがあるからに違いありません。

 気候は温暖な瀬戸内海型で少雨。オリーブやミカン、スモモ、イチゴなどが栽培されています。オリーブは、イワシ、マグロ等の油漬け加工に必要なオリーブ油の国内自給を図るために農商務省が1908年に試作したのが始まりで、香川、三重、鹿児島の3県で実施された試作は、小豆島だけで成功しました。現在、オリーブは食用に限らず、化粧品など広く加工されています。
 他にも、島内では、素麺、醤油、佃煮、胡麻油の生産も盛んで、どれも日本有数の生産地へと成長しています。

 自然環境も豊かです。日本初の国立公園であり、日本三大渓谷の一つ「寒霞渓(神懸山)」や、ギネスにも登録されている世界一狭い海峡「土渕海峡」、蛍の里としても知られる棚田「中山の千枚田」などがあります。
 近年では、潮の満ち引きによって浜に道が現れる「エンジェルロード」が、恋人の聖地として人気スポットにもなっています。
 かつて、映画『二十四の瞳』でロケ地になったことで観光客が激増した小豆島ですが、現在でも映画やテレビドラマのロケ地として選ばれています。

 歴史的な魅力もあります。郷土芸能の「農村歌舞伎」が伝えられる肥土山や中山。ダイナミックな「池田の桟敷」は国の重要有形民俗文化財にもなっています。
 歴史のある寺院も多く、小豆島八十八ヶ所霊場(島四国)には年間数万人もの巡礼者が訪れています。お遍路さんを茶菓子などで迎える島民のお接待は、今も島の文化として残っています。

 瀬戸内海の連絡船航路の歴史は、近年でも目まぐるしく変化が激しい。
 そんな海の真ん中で、小豆島はどんな歴史を持っているのでしょうか。
 多くの特産品と、島民のお接待に育まれた“おもてなし”の風習。
 離島の中の離島。
 きっと、この航路には島国が生きていくためのヒントが眠っている気がします。
 (下のコーナー「島の記憶をよむ」で詳しく掘り下げていきます)

*小豆島行き航路の各社パンフレット クリックで拡大
 四国フェリー様、小豆島フェリー様、両備フェリー様、国際フェリー様、瀬戸内観光汽船様、ジャンボフェリー様から資料提供いただきました。
【 四国フェリーグループ 】
 ○ 四国フェリー、○小豆島フェリー
  第二しょうどしま丸(高松ー小豆島・土庄港)
  第五おりいぶ丸、第三おりいぶ丸(姫路ー小豆島・福田港)
  おりいぶ丸(岡山ー小豆島・土庄港)
  <高速艇>オリーブマリン、特急スーパーマリン(高松ー小豆島・土庄港)
四国フェリー(小豆島フェリー)-2 四国フェリー(小豆島フェリー)-6
四国フェリー(小豆島フェリー)-1 四国フェリー(小豆島フェリー)-4
四国フェリー(小豆島フェリー)-5 四国フェリー(小豆島フェリー)-3

四国フェリー(小豆島フェリー)-7

四国フェリー(小豆島フェリー)-8


【 両備フェリーカンパニー 】
 ○両備フェリー(新岡山ー小豆島・土庄港)
  おりんぴあ どりーむ
 ○国際フェリー(高松ー小豆島・池田)
  第一こくさい丸(パンダ)
  第32こくさい丸(キリン)
 ○瀬戸内観光汽船(岡山日生ー小豆島・大部)
  フェリーひなせ
  第三ひなせ丸
両備グループ(おりんびあ どりーむ)両備グループ(おりんびあ どりーむ中面)


両備グループ(全社) 両備グループ(瀬戸内観光汽船)

両備グループ(国際フェリーほか時刻表)両備グループ(オーキドホテル)
【 ジャンボフェリー 】

 (神戸ー高松)(神戸ー小豆島)(小豆島ー高松)
  こんぴら2
  りつりん2
ジャンボフェリー
【 内海フェリー 】内海フェリー様からはご協力いただけませんでした。
 (高松-小豆島・草壁港)
  旅客船 ブルーライン
  高速艇 サンオリーブシー


島の記憶をよむ(小豆島)

 山の間に美しい棚田を見おろすことができる小豆島。ここには広大な平野はありません。

  耕地面積は少なく、米穀の自給自足は不可能な島

 島民は、瀬戸内海の島で一番高い山、小豆島の中心にある星ヶ城(817m)から海を眺めたはずです。ここからは、瀬戸大橋はもちろん、明石海峡大橋、大鳴門橋まで同時に見渡すことができます。
 昔は、島の周辺に米や諸物資を積んで江戸や大阪へ向かう諸大名の船や、塩廻船が往来している様子が見えたでしょう。航路を通して何かできないだろうか、その夢は、島民のアイデンティティの中に刻まれていったと思います。

 小豆島ではもともと御名代地や皇室、神社などの塩荘園として発展した歴史があります。弥生時代から塩は作られています。
 しかし、塩だけで島が潤うことはありません。

  素麺づくりの技術を持ち帰った島民

1598年 お伊勢参りに行った島民が、その道中に大和国・三輪に立ち寄り、素麺作りを学んで来ました。島独特の手延べそうめんを誕生させます。(島の特産品であった純正ゴマ油を使用。1858年には加登屋製油所が創業。現在のかどや製油です)

1620年 大坂城修復の際に、小豆島の上質な石が大量に切り出され運ばれました。
 大坂城採石は小豆島の採石技術と海運を急速に発展させていきます。(小豆島の石は、その後の江戸城修築にも使われています)

 小豆島は九州へ塩と素麺を移出し、素麺の原料となる大豆や小麦を九州から移入、このサイクルで島内は潤っていきました。
 材料を取り入れて製造し、作ったものをまた移出して生計を立てる循環。
 この時すでに、資源の乏しい島国の生き方を小豆島は実践していたのです。

  石船の船員が新しい商品を見つけた

 石材の海上輸送で海を渡っている島民が、紀州湯浅の醤油と出会いました。製造方法を教えてもらって島へ持ち帰ります。しかし、当時の醤油はまだ醤の中に溜まった汁程度の物で、一生懸命に改良を重ねていきました。

 小豆島の発達した海運と大消費地「京都・大阪」の地理的位置関係。小豆島醤油は、島の立地からもみるみる発展していきます。

  塩から醤油へ! 天領の自由が持続させた発展

 海上物流において非常に重要な位置にある小豆島には、昔から紀州熊野水軍や伊予村上水軍とも連携がありました。島の水軍を利用する目的もあって、小豆島はずっと幕府などの直轄領、天領となっていました。藩による介入を受けることなく比較的自由な支配の元で、新しい企業への挑戦が自発的に起こっていったのです。島には醸造家が400件にものぼりました。

  競争へ

 競争に入ると、島民は大阪商人を相手に商談をする能力も必要になっていきます。
 また、都会の醤油の品質に負けないブランドイメージを確立するためには、島の醸造家の誰でもが粗悪な醤油を出すわけにはいかない。しかも、都会では機械化も進んでいきます。
 醤油税も導入され、零細醸造家は次々と廃業。「島の醤油」の危機です。

 島では技術者を集めて対策を立てます。「同業組合醸造試験場」を作り、最終的には「県立工業試験場」を築くことになります。 科学技術と機械設備にも磨きをかけ、小豆島醤油の品質をあげていくことに成功していきます。

1907年  小豆島醤油の夢を託された「丸金醤油株式会社」設立
(現在はジャパン・フード&リカー・アライアンス)

 それでも小資本の個人企業では関東の大企業に並ぶことはできない。島の醤油業者で集まって協議会を開いて「マルキン醤油」を設立させました。 

 第二次世界大戦。そして、戦後からの奮起

 醤油の原料が手に入りません。本醸造製造醤油は戦中に一度終わったのでした。化学醤油製造に頼らざる得なくなったのです。

 戦後になって、都会で再び醤油づくりの機械化が一層進みだすと、島の醤油業者では追いつけなくなります。後継者確保さえも深刻な事態でした。
 “醤油業だけに頼っていては郷土の経済発展は望めない”と、醤油を素材に使う「佃煮」の生産が醤油業者の手で始められたのもこの時です。
 そこで、島内では資本を出し合って再び会社を立てました。麹づくりだけを目的とした機械を購入し、後はそれぞれで製麹して醤油を作るのです。島の大手の醤油業者も小豆島醤油を強化しようと「マルキン醤油」に合同していきます。

 大手が抜けて島内の醤油文化自体が弱体化しないようにと「タケサン」も設立しています。その「タケサン」も企業努力を重ね、現在は島の最大手企業となっています。そして「マルキン醤油」は現在、関東のキッコーマン、ヤマサ、ヒゲタと並んで4印メーカーとして評価されるまでに成功しています。

  島民の目は常に海に向いていた

 小豆島の人たちにはどんな力があったというのでしょうか。
 どこへ行っても、何があっても、自身の島に軸足をおいて友好的に価値を結びつけてきた感覚は何が源だったのでしょうか。
 並外れた好奇心、チャレンジ精神、大変な努力も、一体何がそうさせたのでしょう。

 かつて、島の頂上から海を眺めていた島民は、幾つもの波を乗り超え、挑戦し、戦争のどん底からも奮起した。
 島民が決して失わなかったものがあるように感じる。

 島の民に深く刻まれた「自力の活力」。それだ。 (了

離島キッチン(東京・神楽坂) 離島伝言板

 旬の具材を煮詰め、炊きたてご飯と和える郷土料理「かきまぜ」と、「ふろふき大根(小豆島紅くるり大根)の醤油もろみ添え」。150年以上使われた杉樽で仕込まれた醤油もろみです。
離島キッチン−小豆島離島掲示板ー小豆島

佐渡汽船(新潟県佐渡島)

 佐渡島ときいて、荒々しい日本海の寂しい小島をイメージする方も多いかもしれません。
しかし、実は佐渡島は日本で一番大きな離島で、淡路島と比べても1.5倍もあります。
 しかも、佐渡沖を流れる対馬暖流の影響で、冬は新潟県の本土側よりも暖かく、夏は涼しいといいます。イルカもいるし、サンゴ礁だってあるのです。これほどイメージとギャップが大きな島もめずらしいのではないでしょうか。
佐渡汽船-タイトル
 イカ釣りの漁り火は知られていますが、他の水産物も豊かなのはもちろん、島内の自然環境も、北や南の植物が共生するほど豊かです。
 北のリンゴから西のみかん、南のスイカ…。佐渡産だけでフルーツポンチが作れます。
 山あり、海あり、川あり、湖あり、そして、国仲平野は米どころでもあります。佐渡産コシヒカリも人気です。地酒や酪農もあります。佐渡島は今、「自給自足が可能な島」とまでいわれています。

 佐渡島には釜業・竹細工・蝋型鋳金・裂き織など工芸もあります。文化や芸術も独特な豊かさを持っています。江戸時代に西回り航路が開かれて北陸や西日本の文化が直接運ばれてきたことで、日本各地の影響を強く受けています。古くから貴族や文化人が京都から流されてきたことで、能、狂言、人形芝居、民謡、門付芸能なども広く根付きました。

 これだけ豊かで文化的な島でも、現在は過疎化の流れの中にあります。1950年には12万5597人いた人口は、5万9060人にまで減少しています。(20115年4月1日現在)
 この島に一体何が起こったのか。いや、起こらなかったのか。
 情熱的な太鼓と民謡が、そのギャップの向こう側に導いています。

 激変の時代と佐渡の挑戦

 佐渡金山は最盛期には世界一といわれる程の産出量で幕府の財政を支えていました。しかし、江戸末期には産出量は減少、時代も大きく動き始めます。
 1858年、日米通商条約によって新潟港が開港すると、佐渡島の両津港が補助港として指定されます。ずっと佐渡の玄関口であった小木港や赤泊港に代わって、両津港が佐渡のメイン航路として新しく発展していくことになりました。

 1885年5月、佐渡島と新潟本土側双方の資本で「越佐汽船会社」が設立。
 1893年には株式会社に改組。新潟本土側の資本が多数となり本社は新潟へ移転します。佐渡島の小さな海運業者も合併させながら経営を拡大、鉄道開設前の新潟ー酒田間などの沿岸航路も開設していき、後には、小樽・函館・伏木・下関・大阪・横浜・東京などにも定期航海を拡げています。
 日露戦争後には、新潟県の「命令航路」指定を受け、新潟ーウラジオストク直行航路を開設しています。「命令航路」指定で補助金を得るまでに成長した越佐汽船は、大正期には“本邦汽船事業経営五大会社”の一つとして数えられるほどでした。1918年には、社名を「新潟汽船」に改称しています。

 佐渡汽船の誕生へ

 1913年には佐渡島側で再び資本が集められ「佐渡商船株式会社」が創立します。この会社こそ、現在の「佐渡汽船」の直系といわれています。当時の越佐汽船会社と競合しています。
 さらに1923年には、新たに前佐渡汽船株式会社も設立され、ますますの競合を展開します(後に「越佐商船」と改称)。
 そして1932年4月、佐渡商船株式会社が、新潟汽船株式会社、越佐商船株式会社を買収して合併、「佐渡汽船株式会社」が誕生しました。
 実質は新潟県の介入による企業統合・再編で、当初から半官半民で設立された日本で最初の第三セクター企業です。(現在も新潟県が資本金の39.2%を出資しています)
 1977年には、ウォータージェット推進式水中翼船「ジェットフォイル」(ボーイング製)を日本で最初に就航させています。

 知恵と資本と駆け引きが日本を舞台に渦巻く佐渡の航路。
 佐渡の時代は、まだまだこれからなのかも知れません。

*現在の「佐渡汽船」のパンフレット クリックで拡大

佐渡汽船-あかね 佐渡汽船-おけさ丸
佐渡汽船-ときわ丸 佐渡汽船-あいびす
【 新潟航路 】
新潟港 - 両津港
 カーフェリー(所要時間:2時間30分)
       「おけさ丸」
       「ときわ丸」
 ジェットフォイル(所要時間:1時間5分)
             「ぎんが」
             「つばさ」
             「すいせい」

【 直江津航路 】 
直江津港 - 小木港
    高速カーフェリー(所要時間:1時間40分)
             「あかね」

【 寺泊航路 】
寺泊港 - 赤泊港
    高速船(所要時間:1時間5分)
             「あいびす」
    ※冬季間(12月1日 - 2月末)は全便運休
 ※赤字削減のため、佐渡汽船は現行の9カ月(3〜11月)運航を、2016から約5カ月(4月末〜10月初旬)にすることを計画し、運輸局に短縮を申し入れています。運輸局が長岡、佐渡の両市に意向を聞き、両市ともに「(短縮は)やむを得ない」と答えている。(2016.1.14)


島の記憶をよむ(佐渡島と新潟)

 1885年 佐渡島と新潟本土側、双方の資本で「越佐汽船会社」が設立

 これが佐渡島の離島航路の始まりです。
 その後、1893年に株式会社に改組され、本土側の資本が多数となり、本社は新潟本土へ移転してしまいます。しかし、そこからの並外れた快進撃は、佐渡側の人間であっても大興奮の成功だったように思います。
 越佐汽船は、成長の過程で佐渡周辺で競合する海運業者も吸収しながら事業を拡大しています。また、そのままの勢いで沿岸航路の事業にまで乗り出していくのです。
 会社が競合他社を合併や吸収を繰り返しながら成長していく様子は、現在のシリコンバレーで繰り広げられるIT産業世界のようにも映ります。競合の優秀な部分も事業に飲み込んでいたのか、或はムダな競争を避け、すでにさらなる次元の競争へ向かっていたのかも知れません。

 この新潟本土側の資本で中心となった人物が、齋藤喜十郎です。
 新潟の近代化の歴史をつくったとも言われる「齋藤家」。喜十郎の大奮闘を調べてみます。
(参考サイト 新潟ハイカラ文庫 http://actros.sakura.ne.jp/index.html

 齋藤喜十郎 「筋骨逞しく見上げるばかりの大男」(「新潟百名士」新潟公友社)

 天保元年(1830年)、代々の清酒問屋に生まれ、幼名は庫之丞(クラノジョウ)。
 8歳で父を亡くし、父の「喜十郎」を襲名、14歳で独立し家業を拡大しています。(庄内から銘酒を直輸入し、販路を拡大)
 25歳時には、酒造した酒を北海道へ輸出して巨利を得たとあります。
 明治元年(1868年)には商船を造って樺太まで航海。米穀を輸出して奇利を得たとあります。(当時の樺太といえば、ロシアの侵入の緊張状態にあり、明治政府が樺太出張所を設けてやっと守っていた時代です)

 巨大な資本を手にした齋藤喜十郎は、明治初期には2つの官命を受けるほどになっています。
 新潟為替会社と新潟川汽船会社です。
 新潟為替会社では出資もして取扱職に就任しますが、すぐに辞任しています。この会社は結局資本金の93%を失って解散しています。
 新潟川汽船会社の方は、明治7年(1874年)に県令からの命令に近い奨励で設立しています。齋藤喜十郎ら13人の出資でした。就航した船は外輪式の木造蒸気船です。(新潟ー長岡間)

 明治12年には政府が交通運輸業を自由化しています。新潟の有力商がこぞって廻船問屋業に参入してくる中、明治14年(1881年)の新潟新聞に、齋藤喜十郎の洋式帆船の新造落成記事があります。荒天に強い洋式帆船を先取りしていたことが分かります。

 佐渡離島航路

 日米通商条約によって新潟港が開港すると、補助港となった両津港も発展していきました。一般人が利用できる小型外輪船も何隻か就航。しかし、遭難や沈没が相次いでいます。
 明治18年(1885年)、佐渡島側と新潟本土側の出資で「越佐汽船」が設立されます。その新潟本土側の中心人物が「齋藤喜十郎」でした。
 その後は、前述の通り、越佐商船株式会社を「新潟汽船株式会社」にまで成長させ、最終的には、新潟県の介入による企業統合によって、佐渡島側の資本で創立された「佐渡商船株式会社」に合併、そこで日本で最初の第3セクター企業「佐渡汽船株式会社」の誕生となります。

 元は海運で財を得た齋藤喜十郎でしたが、一方で早くから時代の変化も感じ取っていました。
 廻船問屋は、産物の地域間価格差で利益を生む商売です。郵便と電信が国内に網羅され、金融や為替の制度も整備・統一されると、それまでのような巨利は生み出せません。さらに、鉄道網が地域に到達していくとなれば、なおさらです。
 齋藤喜十郎は、新潟汽船時代に「命令航路」指定を受け、ウラジオストク貿易に活路を求めています。この時、近代化の流れの中で近くの敦賀港の目覚ましい発展の様子を見ています。敦賀港は、新潟港とは違う発展の仕方、つまり「工業」によってリードしていました。

 新潟の将来に、工業の重要性を感知した齋藤喜十郎

 そこからの齋藤家の活躍は、まさに新潟の近代化の歴史となります。

 <銀行事業>

明治28年(1895) 「株式会社新潟貯蓄銀行」が開業。(専務取締役 4代目喜十郎)

明治30年(1897) 一旦辞任して、「株式会社新潟商業銀行」を創立。後に復帰。(この時、当時の新潟銀行(旧国立第四銀行)の営業方針に不満を持つ商人たちを集めている)

大正7年(1918) 国立第四銀行が「新潟銀行」と商号を変え、再び「第四銀行」と変更している時に、「株式会社新潟商業銀行」を「新潟銀行」という商号に。

大正10年(1921) 貯蓄銀行法の公布に伴い、貯蓄部門を「新潟興業貯蓄銀行」として独立。

大正15年(1926) 「新潟信託株式会社」を設立。

昭和18年(1943) 「新潟銀行」「新潟信託株式会社」が、戦時金融統制で「第四銀行」に合併。

昭和19年(1945) 「株式会社新潟貯蓄銀行」「新潟興業貯蓄銀行」も「第四銀行」に合併。(5代目喜十郎が副頭取となりました)

 <化学工業>

明治20年以降、新潟県では石油採掘が活発に。

明治29年(1896) 「新潟硫酸会社」の設立。当時、製油に不可欠だった硫酸の製造を始める。

明治40年(1907) 化学肥料の製造開始。

 他にも、新潟で「齋藤家」が関わった事業は多岐にわたっています。
 新潟運送、新潟鉄工所、越後鉄道、ホテル イタリア軒、新潟水力電気、他港湾関係…
 昭和11年(1936)の新潟ー東京間の民間航空路開設の際にも齋藤家が関わっているといいます。

 物流業から金融、そして工業へ

 時流を読む先見性に優れた齋藤喜十郎。彼なら今何を新潟に残すのだろうか。
 特産品である「米」や「酒」を愛し、遠い海に目をやる齋藤喜十郎。
 新潟には豊かな「農作物」と独特な「佐渡文化」がある。提案できる「ライフスタイル」がある。
 それこそ、グローバルな世界にオンリーワンの価値としてアピールできる。
 インターネットで世界と繋がる今、齋藤喜十郎ならとっくに世界地図を広げているのかも知れません。(了

離島キッチン(東京・神楽坂) 離島伝言板

 天日干しで乾燥させたタラ「かたせ」と、佐渡のブランド柿による「おけさ柿」。
 相川地区姫津の「かたせ」は塩味絶品。皮をむいてから寒風にさらしてつくる「おけさ柿」は、甘味濃縮です。
佐渡ー離島キッチン-1 佐渡ー離島キッチン-2
佐渡ー離島キッチン-3


九州商船、野母商船、五島産業汽船 (長崎県五島)

 五島列島へは、九州商船、野母商船、五島産業汽船の船が結んでいます。
 今回も各フェリー会社へ資料提供をお願いしました。

 ところが、五島行きの航路ではフェリーターミナル等でよく見かけるチラシを最近では置かなくなっているとのこと。代わりに、九州商船と野母商船から五島の観光資源を紹介する資料をたくさん提供していただくことになりました。
 五島産業汽船さんとは一番手続きに時間がかかったのですが、残念ながら協力をいただくことができませんでした。

 離島航路を維持していくことは、全国どこの航路でも非常に厳しい状況があります。本来はフェリーターミナルに置いておきたいチラシでも、度重なる消費税の増税など、内容に変更が多いものは次第に発行されなくなっていきます。
 離島航路の運営では、島内の生活者のことを一番に想って「航路」の維持を考えますが、その航路を維持するためにはまず外から観光客も呼び込んでいく必要があります。どうしても島外へ向けた観光用パンフレットが重要になってしまうのも仕方がないことかも知れません。
 しかし、島の「生活航路」であり、島民の生活者とともに発展していけることを望んでいるのが連絡船。そんな連絡船を通じて「離島の価値」を確認することに繋げていけるといいなと思います。

 今回、船のパンフを唯一提供していただくことができた野母商船の定期フェリー「太古」を紹介します。博多から五島列島を結ぶすごーく豪華な連絡船です。
五島-タイトル
野母商船
博多ー五島(宇久、小値賀、青方、奈留、福江)
*現在の「太古」のパンフレット クリックで拡大

野母商船-1 太古ー運賃表

野母商船-2 野母商船-3

九州商船
長崎ー五島(福江、奈良尾、奈留島)
ジェットフォイル「ぺがさす」「ぺがさす2」
カーフェリー「万葉」「椿」
佐世保ー上五島(有川、宇久平、小値賀)
高速旅客船「シークイーン」
カーフェリー「フェリーなみじ」
カーフェリー「フェリーなるしお」
九州商船-1 九州商船-2  
五島産業汽船

長崎ー上五島(鯛ノ浦)
「びっぐあーす」「びっぐあーす2号」「ありかわ8号」
佐世保ー上五島(有川)
高速船「夢咲」
フェリー「ありかわ」


島の記憶をよむ(五島列島)

 長崎、五島列島。
 1912年には(五島ー長崎)(五島ー佐世保)の定期航路が開設しています。
戦争の被害が少なかった五島では、海産物も豊かで養殖や加工も盛んだったのとサンゴ等のブームもあって、最盛期には人口が15万人にも登っています。
 1962年(昭和37年)には五島の中心地である福江を「福江大火」が襲ったのですが、市街地全焼の大被害からも一転、当時の経済成長の勢いで市街地の近代化にも成功しています。

 五島の歴史をさかのぼれば、平安時代には遣唐使の寄港地となったり、鎌倉時代には松浦水軍に属した宇久氏が支配下に治めたり、元寇の役には出陣して軍功をあげたり、豊臣秀吉の朝鮮出兵時には一番隊の先鋒となって奮戦していたり…と、とても本土中央から遠く離れた島とは思えない程の存在感を持っています。その一方で、遠く離れた国境の島が、様々な現実と向き合いながら、キリスト教など多様な価値観の中で苦悩してきた事実も、この列島に深い想いとなって刻まれているはずです。
 今も、五島列島ではカトリック教会が51カ所も点在していて、島の日常風景となっています。中には100年以上も前に建造された教会もあるとか。
 大きな工場などはなく、きれいな浜があり、雄大で変化にとんだ景観もある。
こんな素敵な島でも、近年では若者が島を出て就職してしまうため、人口は減少し、過疎、高齢化が進んでいます。
 残念。島にはとても一言ではまとめきれない価値が埋もれています。

  五島、5つどころか140あまりの島々が連なった列島
 五島列島は、これまで特集した「離島」とは違って、かなり広い範囲の列島を指しています。
おおまかに3つの地域に分けて、一番北にあるのは「宇久島」、その南の中通島・若松島などの集まりを「上五島」、さらに南の福江島、久賀島、奈留島の集まりを「下五島」と呼んでいます。ひとことで五島と言っても、とても広いわけです。
 一番栄えているのは、空港もある下五島の福江島。最近は中通島も面白いですよと若い人からは教わりました。


 九州からさらに最西端、海の向こうの五島。
 そこでは常に現実的な脅威を目の当たりにしてきた。
 国境の島がもてる選択肢のいくつかについて、島国に暮らす私たちは現代情勢に重ねながら何度でも問いかけ、掘り下げていく必要があるはずだ。(了

離島キッチン(東京・神楽坂) 離島伝言板

 今から400年前に紀州(和歌山)の漁師たちが伝えたという中通島の郷土料理「紀寿司」。鰺の丸ごと酢漬け寿司です。
 冬場は脂ののったキビナゴも旬。五島の塩でいただく揚げたての天ぷらも絶品です。

五島−掲示板1五島−掲示板2


プロフィール

 全日本内航船員の会

Author: 全日本内航船員の会
東京事務局 松見 準
島根県海士町の観光協会が東京・神楽坂でオープンさせた「離島キッチン」。これから全国の島々を順に、食材と料理で紹介していくと聞きました。
全日本内航船員の会も一緒に離島を巡る気持ちで、離島航路の風を届けたいと思います。

離島航路は生活航路。人と人が行き来し、島と本土の両方の文化を盛りあげ繋いでいます。しかし、全国で離島航路の運営は非常に厳しい状態にあるといわれています。

このブログを通して、多くの方が離島航路のもつ本来的な価値と、今後の連絡船のあり方を身近に考えていただくことになれば嬉しいです。

すべてのヒントは、港のターミナルで感じるワクワクの中に埋もれていたりするのかも知れません。。。

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